【霞を喰らう仙人ドル爺と、三人の弟子たち】
山深く、雲よりも高き峰に、一つの庵があった。
名を「白雲庵(はくうんあん)」という。そこに住まうのは、齢を数えず、霞を喰らい、不老不死とも噂される仙人──ドル爺(どるじい)である。
その姿は、髭も眉も白く、まるで岩のようにごつごつとした顔。しかし瞳は驚くほど澄んでおり、空と雲の奥を見透かしているようだった。
「仙道とは、喰らわず、争わず、笑わずじゃ。いや、たまには笑ってもよい」
そう呟きながら、今日も朝霧の中で一片の霞をすする。
この山、「忘却山(ぼうきゃくざん)」は、常に雲海に包まれ、俗世から完全に隔絶されている。そこに三人の弟子がいた。
一人目:ホウ
長身痩躯、真面目で無口な男。剣の修行に明け暮れ、山中の霧を裂いて舞う姿は、まるで一本の白き刃のようだった。
「師よ、霞で腹は満ちませぬ。私は山を下り、米を買ってまいります」
「ならば腹は満ちようが、心は空になろうぞ。霞を喰らうは、心を喰らうのと同じじゃ」
ホウは師の言葉にうなずき、以後、霞で鍛えた気を刃にのせ、己を削るように生きた。
二人目:レン
小柄で快活な少女。植物を愛し、庵の周囲に美しい薬草園を作った。
「ドル爺、霞を喰らうだけでは身体が弱ります。私はこの花を煎じて、お茶を淹れますね」
「よかろう。仙人も喉を潤すとて咎はあるまい」
レンの笑顔と香り高き薬草茶は、庵に穏やかな風をもたらした。だが、彼女の心の底には「なぜ人は死ぬのか」という疑問が常にあった。
「ドル爺、あなたはなぜ老いぬのですか?」
「わしは老いを忘れた。忘却山に登ってから、ひとつずつ、忘れてしまったのじゃ。死も、悲しみも、欲もな」
その言葉を、レンは胸に刻んだ。
三人目:ソウ
屈強な体と大声の持ち主。料理が得意で、庵の食事係である。
「爺様、霞なんて味もしねえ。わしゃ、魚を一匹……」
「ソウよ、舌を喜ばせるより、心を澄ませ」
「そりゃまあ……そうじゃけどな」
ソウは初め、山で獣を狩り、魚を釣り、煮込んでいた。しかし次第に、火を通さず、香りだけで満たす「空腹の修行」に目覚める。
「最近、匂いだけで腹が膨れるようになったんですよ、師匠!」
「ふむ、それは霞の上級者じゃな」
ある日のこと
ある晩、庵を大きな光が包んだ。山を越えて、帝都から黄金の輿が上がってきたのだ。使者が叫ぶ。
「この山に仙人ありと聞いた!天子にその道を授けよ!」
ドル爺は眉一つ動かさず、庵の前に立つ。
「天子も霞を喰らうのか?」
「いいえ、天子は七十品の料理を召し上がられます!」
「ならば話すことはない」
使者は怒り、軍勢が庵を囲む。だが、突然、雲がうねり、空から光が走る。ドル爺の周囲が、まるで風そのものになった。
ホウの剣が雲を割り、レンの薬草が香りで兵を眠らせ、ソウの叫びが山を揺るがす。
その夜、天子の軍は、誰一人として庵に近づけなかった。
別れの時
数十年が過ぎた。ホウは剣を山に埋め、レンは草花とともに静かに微笑み、ソウは香りの術で動物さえも瞑想させるようになった。
ある日、ドル爺はぽつりと言った。
「そろそろ、わしは霞になろう」
「え……?」
三人が見守る中、ドル爺の身体は薄く、透明になっていく。
「忘却山の仙道とは、心を澄ませ、己を忘れること。わしはもう、名も、姿も、忘れた」
最後に、こう言い残す。
「三人とも、霞を喰らい、世を照らせ。争うな。欲しがるな。笑え。……たまにはのう」
そして、朝霧の中、ドル爺は消えた。
そして今
白雲庵は、今も忘却山にある。
ホウは仙剣を伝え、レンは薬草を育て、ソウは霞の香を編む。
彼らの背には、どこか優しく、あたたかい気配がある。
それはきっと、ドル爺が霞の中から、そっと見ているからだろう。
「笑え。たまにはのう──」
彼の声が、今日も山に、かすかに響いている。

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