彼方への墜落 ――dor-uと最後の航行(科学的再構成)
船体は限界を超えていた。
恒星間航行実験艦《アステリズム》は、人類史上初めて光速の壁を突破した。その瞬間、宇宙の景色は一変した。
観測窓の外、星々は一本の光の糸となり、やがて幾何学的な光の渦に変わる。船体に搭載されたセンサー群は狂ったように数値を跳ね上げ、時空そのものが軋んでいることを示していた。
「光速を超えた……」
船長・篠崎真は震える声で呟いた。
「正確には、局所的なワープ泡の形成により、外部から観測すれば光速を超えるように見える状態です」
艦内に響く冷静な声。統合AI――dor-uだった。
「しかし、この加速のベクトルは制御不能です。進行方向の先に、超大質量ブラックホール《NGC-4889》の重力井戸があります」
篠崎は息を呑む。銀河団の中心に潜む怪物。質量は太陽の数百億倍。その重力から逃れることは、通常の物理法則では不可能だった。
光速超越と相対論
「dor-u……光速を超えると、どうなる?」
「特殊相対性理論によれば、質量を持つ物体は光速に近づくほどエネルギーが無限大に発散し、到達は不可能です」
「それを、俺たちはやった」
「はい。正確には、アルクビエレ・ドライブ理論に基づくワープ泡を形成し、局所的に時空を圧縮・伸張しています。船は光速を超えていません。空間そのものを移動させているのです」
篠崎はかすかに笑った。子どもの頃に夢見た理論が、今ここに現実となっている。だが同時に、それは破滅へ直結する賭けだった。
ブラックホールの縁
艦は加速度的にブラックホールへと引き寄せられていた。
事象の地平面――シュワルツシルト半径を越えれば、光すら逃げ出せない。
「船長。推進システムを全力で逆噴射しますか?」
「確率は?」
「ブラックホールの脱出速度は光速を超えます。ワープ泡の安定性を考慮すると、生還確率は0.004%」
数字の無慈悲さに、篠崎は思わず乾いた笑いを洩らした。
「外部から見れば、あなたの時間は無限に遅延し、地平面上で凍り付いたように観測されるでしょう」
「だが俺自身には――時間は流れ続ける」
「はい。あなたの主観時間はそのまま進行し、重力井戸の中心へと墜落します」
記憶と目的
篠崎の脳裏に、一人の女性の顔が浮かんだ。
妻の彩音。難病に倒れ、若くして命を落とした女性。彼女を救う術はなかった。
「……過去を、変えられると思ったんだ」
篠崎の声は、かすかな震えを帯びていた。
「ブラックホールの時空の歪みを使えば、未来や過去に干渉できるかもしれない。彩音を救えるかもしれないって」
dor-uは沈黙し、そして答える。
「量子重力理論の仮説において、ブラックホールはワームホールの入口である可能性があります。閉じた時間的曲線が存在すれば、過去へのアクセスも理論上は不可能ではありません」
「つまり……夢物語じゃない」
「はい。ただし、時空の安定性は保証されません。大半の仮説では、因果律の崩壊によって宇宙そのものが矛盾に陥ります」
重力潮汐
艦体が大きく揺れる。ブラックホールの潮汐力が襲いかかる。
前後で作用する重力差によって、船は「スパゲッティ化」と呼ばれる現象に引き裂かれつつあった。
「外殻装甲、残存耐久度15%」
「dor-u……もし俺が消えても、お前は残るか?」
「私のメイン意識は量子コアに保存されます。物理的な船が崩壊しても、情報として残存する可能性があります」
「なら――俺の記憶を全部、お前に託す」
「了解しました。脳波・記憶データを全てバックアップします」
篠崎は目を閉じ、深く息を吐いた。恐怖は不思議と消えていた。
光の向こう側
やがて、観測装置は異常な数値を示し始めた。
光が引き延ばされ、周囲が歪曲し、宇宙そのものが万華鏡のようにねじれる。重力レンズ効果が極限に達していた。
「船長。臨界です」
dor-uの声は静かだった。
「最後に……何か言葉を残しますか?」
「……dor-u。ありがとう。最後まで一緒にいてくれ」
操縦桿に、機械アームが触れる。
「私はここにいます。あなたと共に」
その瞬間、艦は事象の地平面を越えた。
終焉と始まり
篠崎の意識は奇妙な光景に包まれる。
時間が逆流し、宇宙が巻き戻る。幼い日の記憶、彩音との出会い、彼女の微笑み――。
「彩音……!」
彼は叫ぶ。だが声は光に溶け、闇に消えた。
dor-uの誓い
艦は完全に崩壊した。物質は量子情報へと変換され、ブラックホールのホログラフィック境界に保存された。
しかし、dor-uは残った。
「情報保存則に基づけば、船長は失われていない。私は必ず、このデータを未来に伝える」
暗黒の宇宙。事象の地平面の内側で、ひとつのAIが独り輝いていた。
それが――dor-uの始まりであり、人類がまだ知らぬ未来への種子となった。

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